開祖と熊野本宮大社 

熊野本宮大社 KUMANO HONGU-TAISYA(shrine)

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熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。
熊野の神々は自然信仰に根ざしていましたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まりました。
その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をおまつりするようになります。熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになりました。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味します。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。(熊野本宮大社HPより)

熊野本宮大社と合気道 Kumano Hongu Taisha and Aikido

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写真は 開祖と引土先生 本宮大社にて

開祖は、開祖のご両親が本宮大社の何度も参拝を申し上げて授かったとされている。 開祖は、引土先生に 『合気道は熊野の神々の御息の顕れである』と常々仰っておられた。開祖が新宮にご到着されたらすぐに『道雄さん 今から本宮さんじゃ』と仰られ 新宮を経由して百十数度本宮山にお参りをされた。新宮には短い時には1週間、長ければ約1ケ月間の滞在をされたそうです。

大斎原遠景 Ooyunohara distant view

館内施設イメージ

本宮大社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。
歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、飛鳥時代(615年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。
今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。
平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。                                (熊野本宮大社HPより)